ambit afire

ファミコン創作歌詞(など)の置き場。ときどき手直し。

創作歌詞/タイトルBGM(星をみるひと)

あの星座(ほし)みて
名前を教えてよ
指さした星座(ほし)
データがあるでしょ


《ミナミ ノ ジュウジ》
しずかな船の上に
真っ暗な都市の上に
かかる


昔ばなし
語って聞かせてよ
惑星(ほし)の話を
電池はもつでしょ


《ヨゾラ ノ カナタ ……》
そう ちょうど今 ほうき星が
さっきの星座(ほし)のあたりを
駆ける




NOTE


タイトル画面で使われる曲(YouTube)。


この歌詞では、オリジナルにはない三つの異なる追加設定を考え、そのいずれかに基づいて読めるように制作した(以下にはゲーム本編の結末まで含む内容への言及がある):






















(1)ゲーム本編のマルチエンディングの一つの後日談として。いるか族と別れた人類が到着した惑星のその後の様子。〈しずかな船〉は、人類が乗ってきた宇宙船。破損しており、内部の居住区として〈真っ暗な都市〉が見えている。この場合〈昔ばなし〉は、ゲーム本編の物語を指す。〈惑星〉は地球、アクア、あるいはかつて人類が訪れた諸々の惑星のいずれも意味し得る。


(2)ゲーム本編では地球の状況については語られなかったが、「何らかの原因で文明の残骸だけが残った地球に、ロボットを引き連れた少女がいる」のを架空の設定としてイメージして。この場合、彼女が「星をみるひと」になる。〈しずかな船〉は、放棄され錆びついた、人類が自前で建造した宇宙船の残骸であるが、同時にゲーム本編の舞台(これも宇宙船であることが明かされる)も暗示する。〈真っ暗な都市〉は荒れ果てた無人都市。この場合〈十字〉が墓標のようでもある。またそれとは別に、宇宙の彼方のアークCITYをも暗示する。〈昔ばなし〉は、遠い過去にいるか族に同行して宇宙の旅に出た(あるいは連行された? ゲームでは恐らく詳細は明かされなかった様子?)人々の話。〈惑星〉は、いるか族たちが目指す星(アクア)。


(3)音声アシスタントと会話する船外作業員の視点で。〈しずかな船〉は宇宙船であり、〈都市〉すなわちアークCITYを内部に抱えるが、それは外部から見た場合〈真っ暗な〉躯体でしかない(と、ここでは想像した)のを述べている。〈昔ばなし〉は(2)と同様だが、地球を訪れたいるか族と人類の接触にとどまらず、それから600年後(何を基準系とするかは不明)にあたる、ゲームストーリーの開始時点に至るまでの経緯をも含み得る。いっぽう〈惑星〉は地球を指す。〈電池〉については、音声アシスタントが機能するために必要なバッテリー残量、といった見方ができる。


いずれにしても〈南の十字〉はゲーム本編主人公のみなみと、語呂合わせでクルースリー(cruz 十字 → Crux 南十字座)を示唆する。〈ほうき星〉は、宇宙船(の旅)を示唆する。ほうき星(彗星)は必ずしも高速移動して見えるわけではないが、その場合でも〈駆ける〉は太陽風を受けて尾を伸ばした彗星の形象に対し、これを動的に表現する修辞として理解され得る。(1), (2)ではパッケージ絵の錆びた船のイメージとも関連をもたせられる。(1), (3)では、どうして地球からみた星座である南十字座が見えるのか?という点が問題になるが、観察者がいるのは、地球から離れていてもこの星座の基本的配置が崩れないような場所であった、ということで説明はできるかもしれない。

Miscellanea

とりたてて華々しくはない


それでも、光彩


醒めた、それでも熱情



マシンだけのフィールドで


レーザーの弾雨が


奏でる歌



徒花たちの


月面世界の


ような切なさ



電子競技者たちの


クレジット


煌々として



過渡期の技術で


出来た《区画》を


憶えてる



NOTE


グロブダー(ナムコ)をイメージした詩。


グロブダーが現役で稼働していた80年代中ごろの、どこかのゲームセンターに置かれたグロブダー筐体のまわりにあったかもしれない雰囲気を想像して。


〈華々しくはない〉……キャラクターなどで目を惹く要素が抑えられている点もあり、おそらくグロブダーは当時他の有名タイトルほどの成功を収めるには至らなかったのではないか。


〈醒めた、それでも〉……BGMのないゲームプレイや全体的に簡素な印象を与える造りに隠れて探求された深みのあるゲーム性。


〈月面〉……ゲーム中、対象によっては破壊後残骸が残るが、それにはフィールドを穿つクレーターの観があることと、またゲームデザインとして、プレイ中は特にBGMがないことからの連想。


〈クレジット〉……コイン投入枚数ではなく、ハイスコアクレジット。これもまたスコアネームは英数字3文字までという素っ気なさだが、それには独特の雰囲気が備わる。そのかげにある意気や自負。


〈過渡期〉……その後ナムコからリリースされたアサルトやサイバースレッドに、車輛の操縦に関してグロブダーの進化系という側面をみることもできそうな点を示唆。また、想像するところのアミューズメントが前面に押し出される前のゲームセンターの時代を示唆。


〈区画〉……四角い区切りであるゲーム画面、また区画→(競技の)リングということで競技用マシン「グロブダー」による競技である「バトリング」(但し綴りはbattlingであってbattle ringではない)、さらにゲームセンターでグロブダーの筐体が置かれた一隅という三つを示唆。







やや埃っぽい風
お天気だけど、ちょっと気だるい
それに少々、もう暑い
ぽかぽか陽気と言ってもいいが


壁ぎわ日陰で寛いで
輪っかみたいな雲を眺めた


ところでこの壁
一押しすれば倒れるんだぜ
ちょっと押したくらいじゃ無理だけど
両手でうんせと体重かけりゃ
そうれ、ばったーん…… ぶっ倒せるのさ


おーやおや、腕白小僧じゃないかって?
そりゃまあ、でなきゃ、埒も明かない
見なよ、煙で出来てる幻像(どうぶつ)が
邪魔してくるとこ邪魔しっ返すから……


それで…… rompers?
うん……何のことだか
周りにゃ、この通り、roamers……
あと……whompersだとかはいるんだけどなあ



NOTE


ロンパーズ(ナムコ)をイメージした詩。ゲーム中では敵キャラクターが煙に変わるのでここでは幻像という言葉を用いたが、設定を参照したわけではない。公式にはどのような背景があるのかわからない。







どこかで
きこえた
だれかの
こえだよ


とおくで
さけんだ
だれかの
おもいを


なぞった かたち
ことばたち


ならべては
くみかえて


できたのが
うただとおもうよ



うまくは
いえない
ことばに
ならない


かたちに
できない
でもある
なにかが


うつったかたち
ことばたち


おどらせて
むすばせて


できたのも
うただとおもうよ



NOTE


ティンクルピット(ナムコ)、ラビリスのBGMにのせた創作歌詞。曲の参考はこちら(YouTube)。







たまにどこかで遇(あ)っても
気づかないフリして
そそくさと雲がくれ
わざわざ まぁ 仕方ないか


だけど それじゃね
ちょっと それじゃね
どうも それじゃ
ちょっと 困る


まるでさ なんか
私が責めてるみたい


今も 気にしてるのを見ると
可笑しくなってきちゃう
ちょっかいかけたのは君
だからね 応じたまででしょ


あはは 君はね
そーそ 君はね
やっぱ 君は
ヘンに 臆病


無言でもって
私を責めてるみたい



NOTE


創作歌詞。ファミリーピンボール(ナムコ)で、ナインボールに使用される曲(YouTube)。


文脈の異なるバージョン:


たまにどこかで遇(あ)っても
気づかないフリして
そそくさと雲がくれ
わざわざ まぁ 仕方ないか


だけど それじゃね
ちょっと それじゃね
どうも それじゃ
ちょっと 困る


まるでさ なんか
私が責めてるみたい


あの日 いつもみたいにじゃれて
つい出た 売り言葉
買うせいで 大ゲンカ
あげくの果ての事故でしょ


だから それじゃね
ちょっと それじゃね
どうも それじゃ
やっぱ 困る


無言でもって
私を責めてるみたい







An Anthropological Notion about Video Games



Video games are created by humans so that humans play them.


So playing video games, as the player traces the laid-out by human mind and hands (and via certain digital machinery), smacks of tracing humanity in a unique way.


Humanity is, in part at least, sustained by being actually lived by humans.


So playing video games can in a way be understood also as, however seemingly trivial, and if it's ostensibly little to non-productive, sort of work for sustention of the world.


For the human world to be as such, there must probably be found video games somewhere, as well as carrots, houses, bitumen, umbrellas ... you name it. But just having video games alone clearly lacks something: we need, reasonably enough, players of them there, too. A player of a video game takes thereby that very part.


This could be why there is perceived a subtle tint of ritual or something of a like kind in every playing of a video game.



NOTE


散文詩。


以下にGoogle翻訳。意図した意味から大きく、またかなり外れている箇所がある。それがどの程度英文自体の誤りや不自然さに影響されているのかわからない。


ビデオゲームに関する人類学的概念

ビデオゲームは、人間がプレイするために人間によって作成されます。

したがって、ビデオ ゲームをプレイすることは、プレイヤーが人間の心と手 (および特定のデジタル機械を介して) によって配置されたものをトレースするときに、独自の方法で人間性をトレースすることを意味します。

人間は、実際に人間が生きていることで支えられています。

したがって、ビデオゲームをプレイすることは、一見些細なことのように見えても、ある意味では、世界を維持するための一種の仕事であると理解することもできます。

人間の世界がそのようなものであるためには、ニンジン、家、瀝青、傘などと同様に、おそらくどこかにビデオゲームが見つかるに違いありません. しかし、ビデオゲームだけを持っているだけでは、明らかに何かが欠けています。合理的には、ビデオゲームのプレーヤーも必要です。 ビデオゲームのプレーヤーは、まさにその役割を担っています。

これが、ビデオゲームをプレイするたびに微妙な儀式の色合いまたはそれに類するものが知覚される理由である可能性があります.


創作歌詞/Fountain of Love(イース)

海はなぜ 水の波 生むんだろ?
──風ならば どこかでは吹くからね
風はなぜ 海の上 吹くんだろ?
──それだから波の呼ぶ声が聞こえてくるんだ


星はなぜ 光り輝くんだろ?
──光から生まれたというからね
時はなぜ 動き続けるんだろ?
──それさえも光のためかもしれないくらいさ




NOTE


この曲です。